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福祉労働153号元稿なのですが

もう、アレから二年たったのですね

えばっちが想うことは、チガウのでしょうかね

この想い続けていることは、マチガッているのでしようかね

 

 

夏の終わり

障害者大量殺人事件

を想う

ファシズムがやってくる

いや、もうやってきている

オレの中に彼はいる

オレの中にファシズムに乗ぜられるスキがアル それがおそろしい

オマイ等の中に彼は居ないのか?

ウンドーの側に彼は居ないのか?

本当に彼が殺したのか、本当に?

じゃあ、誰が殺したのだ!

発達障害概念はファシズムの温床に為る、本当に?本当だ!!

 

 「オレの中に彼はいる」この意味するところが、まるで違ってしまった。その違ってしまったことに、本当に恐怖を感じている。いやチガウな、まるでチガウのでは、ないのだ。そう「オレの中に彼はいる」が、何重もの意味を持つことに為ってしまった。恐ろしいことにナッタ、とそう想う。何層もの意味を持ち出してしまった。しかも、未分化のままに。その何重もの意味を持っている「オレの中に彼はいる」をどれだけ、語ることができるだろうか。

 そう、今までは、そう今までは、それは、自分の心の中の、鬼との出会いであり、鬼を見つめることであった。自分の中の精神医療に対する怒りと復讐の物語であった。その精神医療の存在を許し必要とする社会への怒りと復讐でアッタ。その精神医療で飯を喰い、子供を大学にやり、家のローンを払っている精神医と看護士に対する怒りと復讐であった。それは多分に『倫理的』なものであった。その『倫理的』な「オレの中に彼はいる」と云う前提に立って、社会を、世間様を、専門職を批判してきた。でも、今回の「オレの中に彼はいる」と云うのは、圧倒的に社会的な文脈の中で、或いは、圧倒的に反対ウンドーの側に、言いたいことなのだ。それは、結論から先に言えば、自分の中のファシズムの温床に向き合うことである。自分の中にファシズムに乗ぜられるタネは、ないのかと云う、どちらかと言えば先に社会的文脈の中での「オレの中に彼はいる」と云うものなのだ。

 だから最初に、まず、世の中が、市民様が、専門職様が、権力が、マスコミが、どれだけファシズムを煽り立ててきたのか、ということは、ハッキリと再度、言っておきたい。ソコにはハンタイウンドーの側様も、モチロン入るのでアル。そして、それは第一稿(ロシナンテ社月刊むすぶ547号)の後半部分そのままなのだケレド、、、、、さらにまた、煽り立ててきた人々とは、そして、その煽り立てられやすい人々とは、、、、イッタいドンな人々、なのか。

 

いったい誰がヘイトクライムを煽ってきたのか

いったい誰が差別を煽ってきたのか

いったい誰がファシズムを煽ってきたのか

いったい誰が障害者殺しを煽ってきたのか

いったい誰が戦争と競争を煽ってきたのか

いったい誰が障害者の生命の選別を煽ってきたのか

それは、オマイ等世間様ではないのか

それは、オマイ等シミン様ではないのか

それは、オマイ等センセイ様ではないのか

それは、オマイ等マスコミ様ではないのか

それは、オマイ等精神病院と施設様ではないのか

それは、オマイ等学会学者様ではないのか

それは、オマイ等専門職様ではないのか

それは、オマイ等官吏様ではないのか

それは、オマイ等議員様ではないのか

それは、オマイ等反対ウンドーの側様ではないのか

それは、オマイ等良心派改革派の活動家側様ではないのか

 

措置入院制度が改悪されようとしている今

精神保健法が改悪されそうになっている今

新しい保護観察制度が出来そうになっている今

社会が、まさにまさに、ファシズムにむけて走り出している今

この今こそに、自らに内在する「ファシズムの芽」「ヘイトクライムのタネ」を

じっとじっと、見つめるべきであると想う

ソコを無しで、反対ウンドーをすすめて

アレは、精神病とは何らの関係もない、タダのヘイトクライムですよ、ファシズムですよ優生思想ですよ、直近の問題は措置入院制度の改悪反対ですよ

と、マタゾロ、ワサワサと、分からぬことを、さもワカッタかのように言いつつ

反対ウンドーを進めることに、怖気を感じる

それでは、今の今時に、この社会をファシズム化していこうとする動きとナニも変わらぬ、と云うのが、今の今時に、患者会に拘り続けてきたキーサン革命の鬼えばっちが、叫び続けなければならない事だと、想うのである

 

心の底のほの暗い闇を

ほの暗いトコから湧き出てくる復讐の鬼を

怒りと復讐と、そう、自分がやられたことに対する何百倍ものお返しを求めていた。だから、患者会で生き延びたのだし、落とし前を付けることであった。ナニに対して、精神医と看護士と精神病院と、セケン様に対して、落とし前を付けたかった。だから「オレの中に彼はいた」本当に居たのだ。

だからこその、患者会なのであった。

だからこそ、前進友の会の中で、ZOPT(ゾプト)という遊びが流行ったのではないか。いや、遊びとしながら、ある種の本音が反映されていたと想う。ZOPTとはZンシンOトシマエPロジェクトTチームの略称である。勿論言い出したのは、えばっちである。そして、ZOPTと称して、キックミットやビックミットを突いたり蹴ったりしていたのである。少なくとも、精神病院と大量の薬と四肢拘束五点張りと保護室と閉鎖病棟と電気ショックと看護士の暴力と精神医の後ろから襲われて何発も殴られ引きずり倒され馬乗りになっての医局長の首締めに対して、CVPPPのようなチームテクニクスのニープレスに見せかけた医局長の膝蹴り二発に対して、落とし前を百倍返し千倍返しでつけてやろうというのが、えばっちの鬼であり、その怒りと復讐心が俺の中に彼が居たと云うことだと想う。そして、だからこそ、患者会にいてみんなで食事会をしレクをし、みんなで泣き笑い慟哭し哄笑していたからこそ、ZOPTになっていたからこそ、俺は彼にはならなかったのだと想う。

 でもそれだけじゃない。ここから、さらに心の底のほの暗い闇が続く。

みんなの部屋の中で話していると、実に、想いもよらないなかまから、想いもよらない言葉を聞くときがある。その言葉を聞いたとき、まさしく、い君のその言葉は、まさしく、俺の中の言葉だと思った。その言葉を、ここに書いてしまうことが、少し恐ろしい。けれども、本人の了解のもと、その言葉を書いておきたいと想う。それは、みんなの部屋の中の廊下の突き当りにある自分たちで手作りで作り上げた「ゆうゆう」と云う喫茶スペース、喫煙スペースでのことであった。い君とえばっち、そして誰がいたんやったかな、患者会らしいよもやま話の中、ついつい、えばっちの怒りと復讐の話になった時、い君が言ったのである。「えばたさん、ボクもね、ホントはね、社会に対する漠然とした殺意があるんですよ」と、言ったのである。で、僕は「えぇぇぇーーお前もそうなのか。参ったな、おどろくな。おまえもか。漠然とした社会に対する殺意なのか?漠然なのか?ふーん、俺はよう、漠然というよりは、はっきりしたとした対象が決まった殺意なんだけどな、相手が決まってるのよ、夜よ、布団の中でよ、真っ暗な天井見てるとよ、相手の顔が出てくるんだよね」「でもよ、そういや、俺だって、世間様に対する漠然とした、全ては滅んでしまったらええのや、というのはあるなー」「ここによ、宇宙消滅爆弾のスイッチがあるとするよな。や君とかよ、ざ君とかが、宇宙の大統一理論を完成させて、宇宙消滅装置みたいな理論イコール装置みたいなものを完成させて、そのスイッチがあるとする。これ押すか?」「俺は即座に押す。迷うことなく躊躇することなく即座に押す。やっと楽になれるんや。」「いやーワシは押せんな」と、誰が言ったのか。くちゃんは、「俺は押さんで」と言って、御大師様の全ての生きとし生けるもの全てに仏性があるのや、というようなことを力説しだす。すると、ざ君が「くちゃんは偉いなぁー、だから副代表なんやね、僕は押すかもしれません、押すなー、でもその前に大統一理論を完成しなくっちゃ」「い君よ、お前どうする?社会に対する漠然とした殺意あるけど、子供もおるし、このスイッチ押せんやろ?」で、い君はこう答えたと想う。「押せませんよ。でも、社会に対する漠然とした殺意はあるんですって」で俺は、「俺はそのスイッチ押すわ。本当にあったらな。この押すか押さんかが、何かの分かれ目かも知れんな」というような会話をしていたのを想い出す。

 い君が彼なのではない。スイッチを押してしまう俺が、彼なのである。

 また別の日の事である。同じ場所で、大体同じ面子が集まって、明日の食事会の事なんかを考えながらよもやま話をしていたのである。いつもの口癖のような言葉が出た。「俺の人生っていったい何だったんだろうな」。不全感、不遇感満載で、「俺の人生って何だったんだろうな」「糞だめのクソのような人生じゃなかろうか」といつもの如く言っていたのである。で、これまたいつもの如く「誰も人生の事なんてしゃべってませんって、ここで人生人生なんて言ってんのは、○○さんと○○さん○○さん、だけくらいのモンじゃないですか」「ほかの人は誰も言ってませんよ」と言われるのである。い君がそう言うのである。それはそうなんだけど、明日の食事会のメニューの方が大事なんだけれども、明日の食事会は焼き飯なんだけれども。それで、「あ、明日、焼き飯用の出汁があったかな、エビの焼き飯だから、肉使えないし、海鮮系の出汁あったかな」と、は君が言いながら台所に確認に行った。「そうだ、明日は、肉はダメの日だからなぁー」「出汁無かったら買いに行かなあかん」「あっ、ありましたありました」「良かったなぁー焼き飯は、ミスターもふさんも、好物だしなぁ」「明日の焼き飯は楽しみだなぁー」そしてまた、また、ついつい言ってしまうのである。「それにしたってよ、俺の人生っていったい何ナンだろうなー」「美味い海老焼き飯をたらふく食べることが、人生じゃないですか」「そりゃそうだなぁーこの間交流の人が持ってきてくれはったキンツバはうまかったなぁー」「こしあん派と粒あん派、友の会はどっちが多いですかネ」「俺は断然粒あん派だなぁー」「エッそうなんですか、ぼくはこしあんですよ」「ボクもです」「京菓子はこしあんなんじやないですか」「だから京菓子が嫌いナンだよ、粒あんのドシンとした田舎菓子がエエなぁー」「羊羹派と饅頭派、ココはドチラが多いかな」「次に交流に来たいって云う人はドンなお菓子持ってきてくれるかなぁー」「交流じゃなくて、持ってきてくれはるお土産目当てみたいに見られチャいマズイですヨ」「ソンなことはないだろうよ、なんたって前進友の会と交流したいって云うくらいなんだから、モンダイは実際来てみたらこの雰囲気だから、ガッカリしたトカ言われそうだな」「それにしても俺の人生っていったいナンだったんだろうなぁー」「だから、誰も人生の事なんて喋ってませんって、イマお菓子のハナシでしょ」「い君にだって、社会に対する漠然とした殺意がアルんだからな」「い君、なんでえばっちにアンなこと言っちゃったんだ」「アーあんなこと言っちゃったボクがワルイのかなぁー」と、い君がボヤく。こうして、友の会みんなの部屋喫茶ゆうゆうでの、中年高年のオッサン病者の会話が延々と続くのである。

 さらにまた、別の日のみんなの部屋の出来事である。一番広いみんなの部屋のテーブルの周りに、みんなで座って、ワイワイと話していた時である。ひょんなことから、自分たちの初期のころの家庭内での暴力の話になった。それも、赤裸々にみんなで語り合える、そういう時であり、雰囲気であった。「ここで家族に対して、シビアーな暴力を振るってシモウタモン、いっぺん手挙げてみいひんか」と言ったのである。ほとんど全員がバラバラバラ、と手が挙がったのである。そして、口々に喋りはじめたのである。「親父をグーで殴りましたからね」「グーで殴り合いですよ」「包丁が出ましたからね」「なんで入院させたんやー、と叫びながら茶碗を片っ端から投げつけて、机をひっくり返しましたからね」「僕の方が包丁を出したんですよ」「赤いむすぶに書いた通りですよ」「何を言っているんだ、俺なんか、もうちょっとで妹を殺すところだったんだぞ」「あの映画でも、バクチク本でも、キーサン革命宣言でも、書いた通りや」「悲惨やった、ふすまが血だらけになってた」「ふすまが血だらけと言えば、そさんが酒を飲んで暴れた時は、ふすまがほちゃんの血で真っ赤になってて、玄関のドアが外れていて、俺踏み込むとき、こりゃ、ほちゃん死んでるかもしれんなあと、想いながら、恐る恐る踏み込んでいったんだよ」「お母んにエルボーを食らわしてしまいました」「以来、お袋から強制入院させられるのが怖くて、逃げ回ってるんです」「包丁はよく出るよな」「れさんの枕の下の包丁はヤバかった」「家族だけじゃなくて、ココでも、包丁事件あったよなあ」「あったあった」「あれは、被害者はくちゃんじゃなかったか」「確か、とさんが包丁持ってくちゃんを追いかけまわしたよな」「まあ無事で済んでよかった」「そういや、くちゃん、ま君から、ずっと蹴り続けられるというのもあったよな」「そうそう、あの時はうちゃんがプロレス技で止めたんだったよな」「そういや、い君の奴、そういう一番やばい肝心な時に、いないんだよな」「便所で、紙がねえっつって、やっと出てきたら、全ては終わってたんだよな」「い君、良いガタイしているのに、肝心な時に役に立たねえ、で、その時、何で尻を拭いて出てきたんだ?」「これは一生言われるんですかねー?」「仕方がないから、もらった賃金袋の紙をちぎって拭いてきたんですよ」「尻が痛かったんです」「お前なー。ここさっきまで大変な修羅場だったんだぞ。みんな真っ青になってるだろ」「だって、便所に紙が無かったんですよ、コレきっと一生言われるなー」「そうそう、夏レクで主治医をモウチョットで殴り倒すとこマデいくのもアったって聞きましたよ」

 だから、お利口な「僕たちは、暴力なんて振るったことありません」「心優しき心豊かな優しい、暴力とは無縁の感受性豊かな精神病者です」などと、宣伝にこれ務めている全精連や、全家連や、コンボネットなどの、通信物などを読むと、嘘をつけと、お前たちは本当のことを言っていない、良いようにしか言っていない、それではダメだ、ちゃんと自分の暴力性に向き合えと、それがキチガイの生きる道だと、想ってしまうのである。さらにまた、このお利口さん路線を、持ち上げている、良心的医療従事者たちに、こう言いたいのである。お前たちも、ちゃんと、向き合え。さもないと、真の意味で病者は延々と「お前たちに媚びを売ることになる」、それが分からないのか。おのが暴力性に正面から向き合えた病者だけが、かえって、己が暴力性の恐ろしさを自覚し得るからこそ、医療従事者たちと、媚びを売るのではなく、堂々と正面から向き合えるのである。なぜなら、医療従事者たちが、暴力そのものであるからである。だから、己が暴力性と正面から向き合えなかった病者たちは、暴力そのものを体現している医療従事者たちに、ついつい、無意識的に、媚びを売り続けることになるのである。それが、「心優しき精神病患者」なのである。それが、わからないのかな。

 だから、オレの中に彼はいる。オレの中にファシズムに乗ぜられるタネはアルんですよ、それがオソロシいコトなんデスヨ。

 そして患者会で、みんなでいる事こそが、俺の中の彼が暴れださないようにしていてくれるのです。ムズカシイことではないのです。この会話ソノものなんですよ。患者会こそが、オレの中の鬼を誤魔化させてくれる、だから生きておれると云うのは、コウ云うコトなんですよ。有り難いことなんですヨ。ソウ云うコトなのです。ナニもリクツぽぃムズカシいコトじゃあナインですよ。

 

だけれども、しかし、このキーサンの不遇感と、不全感とは、確かに在って、

時々、誰かが、ポロッと漏らしてシマウのでアル

そこにファシズムが忍び寄ってくる

ファシズムとヘイトクライムと優生思想が忍び込みやすい対象者とは

いったい誰の事なのだろう

ファシズムのプロパガンダの対象とは

そのプロパガンダに乗ぜられやすい人々とは、誰なのであろうか

そう問い直す時、想い直している時、

ウンドーの側にサヨクの側に、我々は、ヘイトやファシズムとは無縁だと言いきってシマエル人たちが多いのにびっくりする

特に精神医療や、心理の専門職に我々はヘイトや優生思想やファシズムとは無縁ですと言いきれる、その不可思議な自信はドコからくるのだろう

精神医学、精神医療、精神福祉、臨床心理

とくに良心的改革派に、その思い違いが甚だしいのはなぜなんだろう

自らの加害者性に余りにも野放図なのは、なぜなんだろう

 

 自分自身は、加害者側にしか過ぎないのに、自分は良いことをしているように、自分は障害者側にいるように錯覚をし続け、病者の暴力による被害者側になることを、極度に恐れる人たちがいる。良心的、改革派的精神医療従事者の、福祉職員の、ある種の典型である。その一方、病者の中で、自分は徹底的に被害者にされ続けてきたにもかかわらず、そのことよりも、自分が暴力の加害者側になることを極度に恐れ、自らの加害者性が頭から離れず、苦しみ続ける病者がいる。いやチガウな、チガう、その一方で、自分は徹底的に加害者ではなくして、気持ちの優しい、心持ちの優しい、豊かな感受性を持った、暴力とは無縁の心優しき障害者ですよと、言い続け信じ続け、前者の医療従事者の良い子ちゃんに為ることだけを目指せられてシマッタ病者がいる。この二重逆転的な皮肉が、わかるだろうか。この二者の関係と、いや三者の想いのねじれ方を、徹底的に煽り、結果として、前者には傲慢を、後者にも最後者にも、自分はダメだと思い込ませる、そのことに人生を掛けているトシカ想えない腐った医療従事者側にも、当事者側にも、ソンなクソたわけた活動家がいる。

 それが、ある種典型的に、前者のような医療従事者からも、最後者のような当事者からも、大人気の末、薬を飲んでいるのか飲んでいないのかもわからない、ハッキリ言って、三十年前から飲んでるのを見たこともない、そんな当事者かナンカ知らんが、代表を名乗って活動し続けている、アンポン譚がいる。前者にも最後者にも、大人気である。此奴の偽者さ加減が分からないのが、オドロキである。

 コウいうような事件が起きた時に、あなたはどう思っているのかと、医療従事者に聞くとき、上記のようなことを想わざるを得ない返答が帰ってくる。そして殺したのは、彼ナンダとヘイトクライムで殺したんだと、大声で喚きたてるのである

彼が、殺したって、言うのか、ソウ言うのか

ヘイトクライムだ。優生思想だ。ファシズムだ。とそう言うのか。

あーー確かに、彼が殺したのだ。

あーーー確かにヘイトクライムなのかもしれない

でもでも、綺麗ごとを言うなよ

ヘイトクライムを煽り立ててきたのはオマイ等や

殺し続けてきたのはオマイ等や

綺麗ごとを言うな

障害者をたくさんたくさんたくさん適法的に適正的に殺し続けてきたのは

オマイ等ではないのか

医療従事者と福祉従業員と精神病院と施設ではなかったのか

特に巨大な単科の精神病院と

まるでコロニーのような、巨大なナニナニ郷とか言うヨウナ施設、

ワークショップとか言うヨウナ山の中に在る巨大な施設や

単科の牧畜業者的な巨大精神病院ではなかったのか

健常者と障害者を分け続けてきたのは、小学校の時から

別け続けてきたのはオマイ等ではないのか

ソコに閉じ込め続けてきた家族ではないのか

ソコで飯を喰ってきた専門職ではないのか

世間様ではないのか

シミン様ではないのか

そこで、障害者や精神病患者を飼い殺ししてきたのではないのか

飼い殺し飼い殺し飼い殺しし続けてきたのは、世間様ではないのか

子どもたちのころから、小学校のころから、障害者は、障害を持った子供は、クラスにいなかったではないか

別にしたではないか

そのうえで、異質なものに対する徹底的な差別と侮蔑を教え込んでいったのは、誰だったのだ

ヘイトクライムをファシズムを煽り立ててきたのはオマイ等ではないのか

障害者の中でも、より重い障害者を、より社会参加できない障害者を、侮蔑し差別するよう仕組んでいったのは、誰だったのだ

障害者、精神病者の中で、よりシミン社会に同化できそうな者を

特に特に、とーーーくにぃぃぃーーマスコミで宣伝し煽り立ててきたのは

煽り立ててきたのは誰だったのだ

「見えにくいアクジ犯」も「掏り替えアクジ犯」も、

「見えやすいアクジ犯」と同じように煽り立ててきたのが分からないのか

いや、より悪質に、精神病者の中に、

社会復帰競争と、そして、生命の重さの軽重を持ちこんできてしまったのが分からないのか

それがそれが、アレはヘイトクライムにシカ過ぎん、優生思想だ、と、よくもまぁ

えらそうにクチャ喋れるものだ

同じ精神病患者の中で、より重たい精神病患者を、より社会復帰できない精神病患者を、減薬できなかった精神病者を、断薬に進めなかった病者を、まるで価値がなく、ちゃんとした専門職がやる社会復帰のためのスッテプを踏んだ段階的ソーシャルスキル・トレーニングのようなものについて行けない精神病患者を、さぼったからだと、やる気がないからだと、向上心がないからだ、成長が無いからだ、と、吹き込み続け、専門職からも母親からも徹底的に教育訓練され、挙句の果てに、より重たい精神病患者を、入院している精神病者を侮蔑し差別するよう仕組んでいったのは、誰だったのだ

それは、専門職能牲に拘る、オマイ等専門職ではないのか

それは、社会復帰に拘る、オマイ等家族ではないのか

それは、飯のタネに拘る、オマイ等福祉従業員ではないのか

それは、安全安心快適に拘る、オマイ等シミン様ではないのか

それは、医師であることに拘る、精神医ではないのか

それは、己が加害者性に全く無自覚な良心派改革派ではないのか

自らにはファシズムの種なぞ無い、それどころか、ファシズムに対抗してきたのだ、とそう、野放図に喚きたてる良心派改革派左派のミナサンよ

自らに、本当にファシズムに乗ぜられるタネは無いのか

本当は、自らが、ファシズムを煽り立てる側には居なかったのか

よくもまぁ、それだけ、野放図に言えることよ

ウンドウの側が

改革派の側が

良心派の側が

野放図に、アレはヘイトクライムですよ、アレはファシズムですよ、と、

言いきることに、虞れを感じている

そう、それは例えば、テレビで、障害者施設の側が戸締りを厳重にし、不審な外来者を取り押さえる訓練を行っています、警察の指導の下に、と云うようなテレビニュースを見せられた時よりも、何十倍もの、違和感と虞れ、を感じている。ジブンタチの側には、さも、ヘイトクライムやファシズムの陰など無いかのように、さもワカッタかのように、アレは優生思想に凝り固まったファシズムのヘイトクライムにしか過ぎない者なんですよ、と言い切れる、改革派が、オソロシい。震えが来るほど、オソロシい。

ではモッと言おう、改革派の精神医が

学会では、特に重要な反保安処分の委員会の小委員会委員長をやっていた

精神医が、己が務めている病院に入院中の患者を殴り倒し、馬乗りに為って首を絞め、更には、再度引き起こして殴り倒すなどと、いったことは無かったのか

徹底的に保護室に電気ショックに閉鎖病棟にハンタイし続けてきたと、言えるのか、己が務める病院で閉鎖病棟を少しでも減らし、開放病棟を増やし続ける努力をたゆまず、やり続けてきた、と言えるのか。電気ショックをやり続ける閉鎖病棟の扉の鍵を開けて、作業療法タラをやり

それよか、学会政治の方に、集会の方に、院内集会の方にチカラコブを

入れツヅケテはいなかったか

院内集会が、己が務めている精神病院の中で、当事者中心のモノなら良かったのだが、ココでの院内集会とは、参議院か衆議院かの院内集会ナノデあった。コトはソレで、ヨカッタノカ、ヨカッタのだろうか。

このワサワさと動き出している対厚生省に対する反保安処分、措置入院強化反対の措置解除後の保護観察強化ハンタイウンドーの側に

組織分裂のとき昨日まで同じ同志としてウンドーしていた車いす障害者を殺したことは無かったのか

人権派シミンウンドーや障害者ウンドーの側に

いやにいやにカリスマ的な人物が組織を立ち上げ、

その組織にカリスマとして安住し、独裁的に組織をウンドーを引きまわしたことは無かったのか

カリスマこそが、カリスマの名利心こそがオソロシイ、と云う、その感覚もなかったのではないのか

今度のことで、法改悪につながることに最も批判的な医療従事者が、精神病院では、いやに安易に、閉鎖病棟のカギを閉めてはこなかったのか。いやに安易に四肢拘束のオーダーを出し続けては来なかったのか。いやに大量のクスリをだしてはこなかったのか。いやに電気ショックを保存して来なかったか。いやに簡単に断薬スバラシい発達障害高機能社会復帰バンザイをしているのではないのか

 

オレの中に彼はいると言い続けてきた

この何重目かの意味は

オマイ等の中に彼はいないのか、という意味である

オマイ等の中に彼はいるだろうよ

何故それがわからないのかーーそれともわからないフリをしているのか

オマイ等とは、この場合、市民様方世間様方マスコミ様方権力様方ではない

オマイ等とは、改革派良心派医療従事者の事である

反対ウンドーの側のことである。当事者性看板型病者運動ボスの事である

「見えにくいアクジ犯」「すり替えアクジ犯」のことである

それにほおっかむりして、アレはヘイトクライムですよ、精神医療とはナンのかかわりあいもない、優生思想のファシズムに染まった、ヘイトクライムにシカ過ぎない者なんですよと、明言断言して、マタゾロ反対ウンドーかなカナカナカナ

クスリを減らすことが、スバラシイコトナンデスヨ、ソレをサボっているのは、自己責任でああなっているんですよ。訓練して、SST受けて、社会復帰ですよ、通リハもあるんですよ、ソレをサボってああなったんですよ、自己責任ですよ、スキルトレーニングサボったんですよ、減薬嫌がったんですよ、ああなったのは、自分らのせいですよ、と言いつつ、宣伝しつつ、精神病患者の生命を選別していたことに気付かないのか

オマイ等こそが、精神病者の生命を選別してきたのではないのか。精神病者への差別構造をより、根深いものにしては来なかったのか。精神病患者の中で、ナンニもできない、病気の重たい薬の重たい患者よりも、さらに言えば精神病院に長年入院させられっぱなしの精神病患者よりも、ナニか出来て社会復帰志向いい子ちゃん患者を優先しては来なかったのか。背中に翼のはえた、高機能のハッタツ障害が、ヨカッタのではないのか。

それをどの口で言うか

虫唾が走る、反吐が出る

アレは障害者の命をナンともおもっていない優生思想の持ち主のヘイトクライムにシカ過ぎない者なんですよ、と、

どの口で、言うとんのや、

その口を便所香水で洗ろうてからモノ言えや

オマイ等、プシ共闘や精労協、オマイ等、保安処分反対を叫びながら、電気ショックを掛けて閉鎖病棟の鍵を掛けてから、反保安処分集会に参加しなかったのか。反保安処分学習会に参加しつつ、電気ショックを御後生大事にやり続けていなかったのか。京都においては、80年代90年代、電気ショックを保存し続けていたのは、プシ共闘の拠点病院二か所だったではないか。自己矛盾内部矛盾を感じることは出来得なかったのか、出来得ていたのか。オマイ等、学会理事会ごっこはしてたけど、病院の開放病棟を守りきれなかったのではないのか。せめて電気ショックの全廃はできなかったのか。。オマイ等、国会の参考人に為ることはできても、四肢拘束の拘束帯を緩めて回ったり、五点張りを勝手にやな、腹の方の奴を外して、四肢拘束だけにするとか、しまいくちに病院の拘束帯を勝手に半分ほど、捨てチマッテ、首になってしもた、とか、と云う失業者には、為れなかったのでないのか。国会の参考人にはなれても、己が務めている病院の拘束帯を捨てたり、鉄格子を勝手に切ったりして、首になった失業者にはなれ得なかったのではないか。国会参考人には検討委員には為り得ても失業者には為り得なかったのではないのか。

あまつさえ、「セクト」か「政党」か「市民運動」かシランが、この間まで同志だった車いす障害者を殺さなかったのか。この間まで同志だった相手にナーバスかけて、発狂に追い込まなかったのか。そう、ありとあらゆる嫌がらせ掛けて、組織的に長期に嫌がらせ続けて、神経症に欝に、追い込まなかったのか。この間まで、同志だった相手の言うことをキチガイ扱いして戯言にしてこなかったのか。いやアレはキチガイだと言っては来なかったか。どの口が言うかね、アレは、優生思想に染まったファシズムのヘイトクライムに過ぎないんですよ。アホウ、オマイ等の中に彼はいないのか、イルンダよ、居るのに、ソコはあっさりと、知らんふりして、反保安処分闘争反優生思想闘争ですカイな。

 

 コレはまたもやの「負け戦である」どうせ、負け戦なら、信じ合えるような、負け戦にした方が良いと想う。この状況では、待ってましたとばかり、措置入院制度の強化は、措置解除後の保護観察制度は、イマニホンシャカイの実質的にも、法制度的にも、為されてシマウだろうと想う。今だってモハヤ、このニホンのシミン社会は、ケッコうな警察監視社会になってしまっている。だったら、信じ合えるような闘いと、信じ合えるような負け戦で、闘うべきだと想う。そしてそれは、観察法にハンタイしつつ、出来てシマッタら、その観察法体制下でドウキーサンは生きるのか、生きていくのか、と云う問題の、ゲンジツのモンダイの第一歩に為るべきことなのでアッタのだが、、、これは、前回の観察法の時も、縷々叫び続けたことであるが、一顧だにされることなく終わった。こんどもまた、ソウナルであろうが、言っておきたい。

 前回の観察法の時のように国会参考人に、大阪人権センターの山本深雪、病者集団の関口明彦、山本真理が、さも、当事者を代表するかのように出たことを考えれば、また、自立支援法の時も内閣府か与党の検討委員会かシランが、病者集団の関口明彦と山本真理が、さも、当事者を代表するかのように出たのであるが、このような動きには、すべからく反対である。それでナンゾ変わったか、かえって、権力の側に良いように利用され、アリバイ作りに加担しただけではないか。しかも、お互いに信じ合えないような「負け戦」に仕手シマッタ。重たい精神病患者の事は、閉鎖病棟の患者さん達の事は、置き去りにして、国会に行ったのではないのか。委員サマに為ったのではないのか。少なくとも、ジブンタチの側に在る【彼】を見つめ直してから、出直した方が良い。己が名利心に、己が暴力性に、己が差別性を見つめ直し、さらに、己が復讐心を、己が落とし前を付けてやると云う、元々の病者としての出発点を再確認した方が良い。ソレがないわけはないやろから、ソウいう意味では、病者集団でも最古参の活動家は、エバッチの縷々書いてきた意味は、分かってはくれるダロウとは想う。そう、楽観したい。

 モンダイは、次世代を担うツモリになっている若い活動家達だ。ハッキリいって、この文章ナンゾはナニがナンだか分からないのではないかと想う。分かろうとする気も無いであろう、し。

 だから、この病者集団の次世代活動家が、己が暴力性にも、己が独善性にも、己がエリート主義にも、己が名利心にも、己が病者運動ボス牲にも、己がカリスマ嗜好志向にも、己が権力への媚を売る姿や、己が権力機関へのすり寄りや、己が優生思想のタネや己がファシズムのカゲにも、向きあう事なぞできずに、アレは単なる優生思想のファシズムのヘイトクライムにしか過ぎない者なんですよ、と、言いきりながら、反対ウンドーナンぞを始めた時に、精神病者ウンドーの歴史は、決定的に歪められ、そしてまた、落とし込められ、新たな差別構造がヂゴクのようにうまれるであろう。最古参の活動家は、果たして、ソレに気付いているのかどうか、、、、気づいていても、もはやドウにも為らないトコロまできているのか。そう、病者ウンドー相のファシズムとはまさにまさに、ソコから、始まるであろう。病者集団の次世代活動家が地獄のファシズムの蓋を開けるのである。最古参の活動家よ、分かっているやろうね。なんとかせにゃならんよ。それは、最古参たる貴君のセキニンだ。

 

 障害者の闘いとは、一番重たい障害者のセーカツから、始まらなければならない、それなのに、ウンドーの側は、却って、一番重たい何十年も入院しっぱなしの、何十年も入所しっぱなしの、あの鉄の扉の向こうの一番重たい障害者ナゾ、まるで存在しないかのようにウンドーをしつづけ、制度政策提言し続け、集会を開き続けては来なかったのか。精神病者のウンドーとは、閉鎖の保護室に何か月も何年も閉じ込められ、その後、三十年以上も入院させられ続けている患者のセーカツから始まらなければならないものであろうに。何故、ソレが分からないのか。

 反ファシズムの運動とは、セーカツから、セーカツから、来るものでなければならない、とそう想う。上司、上官、上級、上部、幹部、多数、カリスマに従う組織体に、反ファシズムの運動は担えないのである。部下は上司に、下吏は上官に、下級は上級に、下部は上部に、末端は幹部に、少数は多数に、一般会員はカリスマ指導者に従い続けると、その先にナニがあるかは、御存知の通りである。

 ともあれ、我々患者会は、キーサン患者会として、今日も明日も、そして明後日も、レクの段取りをし、食事会のメニューを考え、みんなで、泣き笑いしながら、哄笑と慟哭をしながら、セーカツをし続けるだけである。キチガイが、おいしいものをいっぱい食べ、楽しく愉快に笑いながらセーカツし続けることである。レクと食事会である。愉しく暮らせたらよいのだ。そしたら、地域の人らが、アソコの作業所は、いっこも作業せんと遊んでばかりいますよ、と、市役所にチクられたのは、もう、15、6年前ココでのこと、であった。だからこそ、いま、ココで、レクと食事会の、自主独立の患者会をやり続け、開き続け、おいしいものをいっぱい食べ、愉しいレクを自らが企画し、段取りして、入院しているなかまを見舞いながら、自らの周りの精神病院と診療所を監視しながら、暮らし続けるのである。それが、キーサンのセーカツであり、それが、まさしく反ファシズムと云うコトではなかろうか。しかもキチガイは兵士に為ることは出来ない。ありがたいことである。キチガイが、患者会をこしらえて、みんなで愉しく暮らして長生きしていたら、ソレはそのマんマ、反ファシズム闘争反戦闘争に為るのである。ナントありがたいことか。

 

ここまで、ヘイトクライムであるかのように優生思想であるかのようにファシズムであるかのように、言ってきた、そう、確かにソウ想うコトもアル

だが、ソレダケであろうか

本当は、わからないのではないのか

あの職場での働かされザマや、ナニか個人的なそうとうな出来事や、学校家庭会社社会町村の環境的なものもあったのではないか、とも、ソウ想う。

エバッチにはワカラナイ、だから、分からないと、言う。

一方、マスコミやテレビのワイドショーや週刊誌では、反社会性パーソナリティ障害やタラ、ソシオパスやタラ、サイコパスやタラ、発達障害やタラ、薬物使用のセイやタラ、薬物依存やタラ、精神病やタラ、躁鬱病やタラ、いやいや、上記の二つ三つ重なったのやタラ、さも分かったかのように、クチャ喋っている。しまいくちには、テロや。上記すべて一切関係ない、心優しき精神障害の皆様とは一切関係のないただのテロやテロにしか過ぎん。だから、テロ対策の強化や。と云う喚き声も大きいようである。いやいやヘイトクライムや優生思想や、だから、ファシズム反対運動や、措置入院改悪反対運動やと云う声も、大きいのである。

分からない事は、ワカラナイと、言ったらどうか。

ワカラナイのに何故措置入院改悪になるのだ、と、そう言うべきではないのか

ワカラナイのに何故措置解除後の保護観察強化になるのか、と言うシカないのではなかろうか

しかもしかも、おそれいったことには、措置解除後の保護観察は、『支援』と云う名の下に、【総合支援】【サポートチーム支援】と云う優し気な名目のもとに行われそうなのである。

まぁ、どちらの側もさもワカッタかのようにモノ言うのがタマラナイ

そうして、どちらの側もファシズムの芽に無自覚であり、しかも、自己矛盾も

感じてはいないかのようだ。

 ここで、キョーレツに想いだす、とある保守的な、社会復帰型カナと想っていた作業所の所長兼理事長のコトバである。あの秋葉原のトラックに突っ込んでいった青年の事件の時のコト。世の中は、また、いつものように、今回のような状況であった。その時、こう公言して、ナニカに書いていたように想う。

「彼を抱きしめてやりたい」と。コレを公言するのは、タイヘンだったろうと、想う。前後の文脈は、忘れてしまった。あの時コレを言うのはタイヘンなコトだったろう。「彼を抱きしめてやりたい」と。えばっちには、言えない。たくま氏にもかとう氏にもうえまつ氏にも、「彼を抱きしめてやりたい」とは言えない。正直に言う、言いたくとも言えないのではない。言いたくないのである。では、ナンダッて、こんなにもエラソウに書いてきたのだ。矛盾しているではないか、そう、矛盾しているのである。矛盾だらけダ。ワカラナい上に矛盾ダラケ。そして、キーサン患者会のセーカツは続く。レクと食事会と入院中のなかまへの御見舞いは続く。コレが実際の病者の生命の底で居直り、街で居直り、病院で居直り、街に居続けようと、病院に居続けようとする病者のセーカツだ。ワカラナい上に矛盾ダラケ。ココまで言いながら、自らの中に彼らがいると言いながら、彼らを抱きしめてやりたいとは、ドウしても想えない。ドウしようもない鬼だと、そう想う。

どちらにしろ、ワカラナイのに何故措置解除後の保護観察の強化になるのか、と言うシカないのではなかろうか

しかもしかも、おそれいったことには、措置解除後の保護観察強化は【福祉】【総合支援】【サポートチーム支援】と云う嬉し気な名目のもとに行われそうダトしたら、【あなた専用サポートチーム】と云う名目のもとにやってくるとシタラ。さて、そうなったときには、アノ例の「発達障害者」関連のミナ様方モナ様方は、ミナモナ持っていかれてシマウのではないかシランと、想うのである。

そう、いよいよ、この最後の一点を書くべき時が来た。

この一点を書くべき時が来た。

発達障害はファシズムの温床と為るであろう。

 精神医療と福祉の中で、ずーっと想い続け悩み続けてきたことがある。それをどう表現すればいいのかわからかった。それは、発達障害が、権力にとって本当に都合のよいものだということの、行き着いた先を言いたかったのだ。だけれども、なかなか言えなかった。だが、ついにこの一点を書くべき時が来た。 

 発達障害者と、発達障害特性とは、権力にとってまことに都合のいいものだと言い続けてきた。それで、理屈としては16箇条の理屈も書いてきたけれども、真の意味で権力にとってまことに都合がいいとは、ツマリ、発達障害者と発達障害特性とが、ファシズムの温床を拡げるからであり、ファシズムのゆりかごとなるからである。ファシズムが煽り立てるプロパガンダの対象者に持って来いのモノであるからなのだ。そう、発達障害者の拡大は、銭儲けのためだけに在ったのではない、ということだ。ファシスト予備軍を育成するためでもあったのだ。しかし、この予備軍は、まかり間違えば、キョーさん化し反対ウンドー化するかもしれない。牙をむいて来るカモシレナい、しかし、もうその恐れはなくなったと、たかをくくれる状況になったのだ。発達障害概念を見直してみればよい。スグに了解である。コレほどファシズムの温床となり、しかも、反対側の反対ウンドー化には、その概念そのものが、その方向をなくさせ、しかも、単発単独ゲバや単独型テロの無効化と都合のよい説明化に使えるのである。こんな、まことにベンリな当局にとって権力にとって都合の良い障害者概念が、あろうか。

 発達障害者そのものが持っている、いや、発達障害概念そのものが煽り立ててくる、不遇感、不全感、世の中から正当に扱われていないという不満感、それらはどんどん亢進されてくる。その一方で、能力が高いのだ、環境さえ整えば、あるいは、サポートチームさえあれば、アナタのクリエイティブな才能は開花だ、という「選民的高機能性」(右肩上がり人生が待っています)もどんどん亢進されてくる。その一方で、客観的には、例えば比較の問題として、精神病者の不遇感、不全感、世の中から正当に扱われていないという不満感とは、比較するのもおこがましい、という現実がある。十年も二十年も精神病院に閉じ込められ、生保も年金も精神病では取れるとは思えなかった病者たちの生活の苦しさと、今流行の発達障害者の生きづらさとが、同じものだとは到底想えない。ところが、発達障害者の方が、不遇感、不全感の亢進度合いは、想像を絶するものがあって、それが、なんと、権力の側に対抗する『団結』というものに、ならないように、障害概念そのものがなっているので、障害特性がソウなっているので、権力にとっては、まさしく、ファシズムの優生思想のプロパガンダの対象に、もってこいのモノなのである。

 不遇感、不全感、正当には扱われていないと云う不満感、それを例えば、非正規雇用と云うコトと「例えば」「置き換えて」考えてみたら、どうかと想う。そう、非正規雇用は、銭儲けだけのために、組織的政策的に増やされたわけではない。非正規雇用で、経済的にも社会保障的にも、不遇で、世間的にも正当な扱いを受けられていない、ソンな労働者が増えれば増えるほど、苦しければクルシイほど、ファシズムのゆりかごと為るのである。歴史を見直してみればよい。すぐに了解である。今回は、決定的に更にさらに進化を遂げている。ツマリ、発達障害概念の発明と、大流行である。そらおそろしいことに、コレは「置き換えて」「例えば」なのではなく、今の今時のニホンのゲンジツでは、非正規雇用の政策的増大と発達障害概念の発明と政策的大流行とが「両方併存的にあいまって」ファシズムの温床に直結しているのである。この恐ろしさに誰も気づかないとは、オドロキだ。

 

 発達障害で、精神医療を根底的に破壊できると言うてきたアンポン譚ども、木を見て森を見ずとはこのことや、発達障害は差別的社会復帰的エリート障害者的保安処分的人格障害再復活的で、ついには、ファシズムの温床にまでなってしまうのが、ワカランかったのか。木を見て森を見ずとは、コノコッタ!!!発達障害を拡めまくった連中、自分がファシズムの温床を拡げてきたということが、わかって居ないんだろうなぁぁーー

ダカラ、だからこそ、発達障害は今の今時に大流行しているんダヨ、恐ろしいことだ。

 

 

未完のままである、最後のこの項、全部書けないで終わりそうである

実は、この項含めて書き得てなかったことが三点アル、未完のママである

ドウスレバイイノカ

2016/9/30

 

 

2016/8/5起稿 

京都市山科区日ノ岡坂脇町7-5 前進友の会気付

55歳コテコテの躁鬱病五回の入退院

キーサン革命の鬼えばっち 江端一起

 

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